湘南海岸の津波予測

 海岸沿岸都市の津波想定は2〜3m程度で、ハザードマップや避難地の指定がされている。
 今回のことからもっと大規模なものを想定しなければならないと考える。

過去大津波を引き起こしたと考えられる地震

●明応の震災 ウィキペディアから

 1498年8月、東海道沖に発生した大地震で、紀伊から房総にかけて太平洋側で震動が強かった。
 津波は紀伊から房総にかけての沿岸に襲来し、波高は駿河湾沿岸の江梨や小川で8m、伊勢、志摩で6 - 10mであった。鎌倉の八幡宮参道にも襲来し、また高徳院の大仏殿はこの地震による津波で倒壊して、鎌倉の大仏が室町時代末に露坐となったとする説がある[2]。 かつて淡水湖であった浜名湖が、津波により太平洋とつながり今切と呼ばれる湾口を形成し、湖が拡大した[1]。
1,小山真人 「東海地震はどんな地震か?」『地震防災』 学術図書出版、2008年 1498 年明応東海地震−津波で外海とつながった浜名湖−
2, 菊地勇次郎 「高徳院」『国史大辞典5』 吉川弘文館、1984年
 
●安政東海地震(寅の大変) ウィキペディアから

1854年12月23日の東海地震。東南海地震の領域も本地震の震源域に含まれていた。また、約32時間後に起きた安政南海地震と共に一連の東海・東南海・南海連動型地震として扱われる。
房総半島沖から土佐沖まで激しい津波に見舞われた。波高は甲賀で 10 m 、鳥羽で 5 - 6 m 、錦浦で 6 m 余、二木島で 9 m 、尾鷲で 6 m に達した。津波は駿河湾西側や遠州灘では引き潮から始まったが、伊豆半島沿岸では潮が引くことなく津波の襲来に見舞われた。伊豆半島において昼過ぎまでに何十回となく襲来し、大きな波は3回打寄せ、そのうち第二波が最大であった[8]。志摩半島の国崎では津波特異点となり「常福寺津波流失塔」の碑文には、「潮の高さは城山、坂森山を打ち越えて、彦間にて七丈五尺(22.7 m)に達した」と記されている[13]。
駿河湾内で海面が山のように盛上がり、崩れるのが海岸から目撃されたとする記録もある[14]。
 下田では15 - 20分後に津波が到達し、2回目に押し寄せた津波が5 - 6m(13 m とも)に達し、昼過ぎまでに7 - 8回押し寄せ家屋を流出させた。湾内には大きな渦が生じ碇泊中のロシア戦艦ディアナ号は浸水により何回も回転して大破し、津波が収まった後、修理を試みようと戸田港へ廻航する途中、暴風雨も重なり流されて田子の浦沖で座礁し、沈没した。

8.  岡村浩、松田磐余、高橋博 『実録 安政大地震 その日静岡県は』 静岡新聞社、1983年
13. [1] (PDF) 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書原案「1854年安政東海地震・安政南海地震」−明応7年(1498)東海地震による志摩国大津集落の高所移転−
14. 『理科年表読本 地震と火山』 丸善、1981年