権限と責任の所在 広い視点で−(10)−

月刊下水道 Vol.21 No.13 1998より

1,旧国鉄用地の処分問題
 バブル華やかなりし頃、都心の旧国鉄用地の売却問題が浮上した。精算事業団側としては、早期に処分しなければならなかったのに待ったがかかってしまった
 待ったの理由は、不動産価格の上昇しているこの時期に
競争入札を行うと、もっと不動産価格の上昇を招くというものであったようである。筆者も、土地政策に関連する人から熱弁をふるわれたことを憶えている。しかし、ものの値段は需要と供給のバランスで決まる要素が大きく、供給を絞れば何らかの形で価格は高くなるものである。戦後の物価統制が闇市場をはやらせたことのように、規制はよく考えてやらなくてはいけない。結局好時期に売れなかった。高いときに売却しなかった損の追求を受たら、この問題の責任はどうなるのであろう。当事者の意志決定によるものであれば当事者の責任になるが、そうではないようだ。これから権限と責任の所在の問題が浮かんでくる。
2,稟議制の問題点
 我が国の各種組織の意志決定システムは基本的に稟議制で、集団合意が主である。この集団意志決定システムは大局的な判断が正しいとその方に向け、十分な調整が図られ非常に力を発揮するが、判断がおかしいと皆間違った方向に進み、おかしいと言う人が出にくいため、軌道修正が大変に難しい。これに反し、個々の部局がその権限内で自由に動き、常時対決しているようなシステムでは、能率は良くないが大きな間違いは生じる可能性は低くなる。
 バブル時期、金
融界は全体で稟議したように皆同じように、非常に危険な罠に入り込んでいった。 稟議制の問題点としてこの他、決定に時間がかかること、担当者の責任感の希薄化、上位者の指導力が不足することなどが言われている。筆者が感じるのは、複数の部局にまたがる改善改革が進みにくいこと、細かいことでも稟議に上げすぎて業務が硬直化していること、また間接的権限による調整で全ての部局を巧みに支配する力ができることがある。所管する上級管理者が、下からあがっていく稟議と間接的権限による調整活動に慣れてしまい、改善へのリーダーシップを発現できない面がある.
3,責任者の変化
 最近、稟議に代表される集団意志決定システムに風穴があきつつある。これは不祥事などの責任問題で起こっている。不祥事の責任が、これまでのように組織末端の個人にかかるのでなく、稟議に関わった一番上にあった職の人が責任を問われるようになってきた。こうなってくると最終責任者はたまらない。集団意志決定システムの濫用によって、来なくていい沢山の決裁が回ってきて、書類にはんこを押すだけで、何時とんでもない責任追及がくるかもしれないことになる。自分が直接関わった仕事は当然であるが。
 個人責任が追求される時代にあっては、これに連動して組織の中の各職務の権限と責任の分担がはっきりするように変えていなければならない。
4,首のすげ替え
 サッカーのワールドカップに初めて出場した日本が全敗したことによって、監督の首のすげ替えがすぐに問題になった。スポーツの世界では強い方が勝つものだし、下馬評でも強くなかったのに、ワールドカップ熱(サッカー熱ではない)により、勝たないとおかしいと言うムードになってしまったようである。平成になってからの総理大臣の数は大変なものである。大きな問題が起きると、責任が本当にあったのか分からないうちに、トップの首が飛ばないと、きまぐれな世論がおさまらないという悪しき風習は昔から変わらない。
 トップの
首をすぐすげ替えるのは、集団意思決定主義から来ているような気がする。集団で意志決定をしているので責任は全員にある。したがって、責任をとると言うことは全員が辞めることになる。しかし、そうなると組織が成立しなくなってしまう。そこでトップが代表して辞めることになる。本来、責任者の人選は、その職務をまかせられるかと言う技量が問題になるべきであって、こういう見地からすると、むしろ苦い経験を持った人の方が優れている事が多い。とかく勝負事は時の運など、責任者の思いも寄らぬ事で決まったりする要素があり、勝った負けたで判断すべきものではない。                                        −次へ−