八田堰
  河口から9km付近にあり、発足間もない土佐藩で治水工事、灌漑用水開発に活躍した野中兼山が指揮して慶安元年(1648)から承応元年(1652)まで5年を要して築いたもの。左岸に灌漑用水を作り、吾南平野約900haの灌漑用としてだけでなく、高知城下へ通じる物資の運送路としても利用していました。八田堰は仁淀川の強い流れに流されないよう、湾曲斜め堰となっています。施工にあたって、兼山は、流水との調和を図るため川に綱を張り、流水による綱のたわみぐあいを調べて堰の方向や形状を決めたといわれています。もとは石造り
                         
  仁淀川の歴史
八田堰からの用水路
 舟運のため、下流では浦戸湾まで行く運河も作られたとのこと